死と乙女〜音楽都市ウィーン

死と乙女〜音楽都市ウィーン
Death and the Maiden – The music city Vienna

『音楽の都』ウィーン。宮廷のオペラを頂点として貴族や市民にも音楽が浸透した都市です。市民革命の時代である18世紀後半、それまで貴族中心のものであった音楽が市民階級にも広がり、裕福な市民が子女のために音楽教師を雇うほどになります。そんなウィーンには、成功を求めて各地から音楽家が集まってきました。モーツァルトやベートーヴェンは、ウイーンにやってきて宮廷だけでなく市民を聴衆(=顧客)とした最初の世代の音楽家でした。当時のウィーンではハルモニームジークと呼ばれる管楽合奏が流行しており、ウィーンに引っ越してきたばかりのモーツァルトはブルク劇場での演奏会のために管楽器のためのセレナードを書いたという説もあります。ブルク劇場は『フィガロの結婚』やベートーベンの交響曲第1番が初演された場所として有名です。1792年ハイドンにその才能を認められて弟子入りしウィーンに移住したベートーヴェンは、たちまち人気のピアニストになりました。交響曲第2番が書かれた時期は、持病の難聴が徐々に悪化し聴覚の喪失という音楽家としての絶望的な状況から『ハイリゲンシュタットの遺書』を書いた時期にあたります。しかし、この遺書は絶望を乗り越えた決意表明とも考えられ、第2交響曲は悲しみを超克した力強さを湛えています。シューベルトはこのような音楽界が隆盛するウィーンで生まれ育った、音楽都市ウィーンを象徴する作曲家といえます。シューベルトが作曲した「死と乙女」は、ドイツ語圏の中世以来の伝統的な芸術観である「死の舞踏」から派生した主題です。ウィーン国立歌劇場の指揮者であったマーラーは「死と乙女」を弦楽オーケストラにアレンジすることで、より鮮やかにその世界観を描き出しました。マーラーが活躍した時期のウィーンは、新ブルク劇場の天井画を描いたクリムトの分離派が活躍するなど、生と死を強く意識させる退廃的な世紀末芸術が華開いており、世紀末ウィーンの画家として人気のエゴン・シーレの代表作のひとつが「死と乙女」であることは、ウィーン芸術の系譜において象徴的なことだといえます。

第56回定期演奏会

モーツァルト(ブロムハート編曲) / パルティア 変ロ長調 K.361(370a)
Mozart, Wolfgang Amadeus (arr. Blomhert) / Parthia in B K.361(370a)

ベートーヴェン 交響曲第2番ニ長調作品36
Beethoven, Ludwig van / Symphony No.2 in D major, op.36

シューベルト(マーラー編曲) 弦楽四重奏曲第14番ニ短調 D810「死と乙女」(弦楽合奏版)
Schubert,Franz Peter (arr. G. Mahler) / String Quartet No. 14 in D minor, D810, “Death and the Maiden”